もうそうだぶんのかたこんべ(仮設)

こんぷれいんつ・ぶろぐ別邸。中の人などいない。

めいじょうしがたいてんさいたち

頭が良くなりたい。

頭が良くなりたいという願望は今でも頭と胃の腑の辺りを漂い続けているし、寧ろ以前より一回り二回り三回りも大きく膨れ上がっている。何せ自分の周りには頭の良い人間たちが多いからだ。彼らの近くにいると常に自分の馬鹿さ加減が際立って見えるし辛くて仕方がない。彼らが何を言っているのか分からない。彼らなりに馬鹿の僕にも分かりやすく説明してくれる事もあるが、それでも分からない事は分からないし何よりこの彼らの善意がひたすらに劣等感に火をつける。わざわざクッソ馬鹿な僕のためにとても分かりやすく言葉と内容を咀嚼して流動食の様に喉に流し込んでもらっているというこの優しさが。それでもなお何を話しているのか分からない。分かったとしてもそこに自分が意見出来るわけもないので粗雑な相槌が限界になる。だから彼らの会話に私が介在する余地も必要もない。仮に彼らの議題が僕自身であったとしても。

僕に何か問題があったとしてどこがどう問題なのかを僕自身に話しても理解することは出来ないし、だから僕自身の問題すら彼らの中で議論されて、彼らなりのロジックで解決を見たり見なかったりする。最近は未解決の方が多いけど。

それでも僕の問題は僕の問題である。彼らが僕に理解できないロジックで話していたとしても「コイツが馬鹿なばっかりにこんな事になってるんだが」とか「コイツの馬鹿を直すためにはどうすれば良いのだろうか」とか言われているのである。多分。つまりは僕が馬鹿である問題児であると言う事は他の人間からしても――勿論そんなことを表沙汰に見も蓋もなく言葉にするのは失礼に当たると言うのは彼らなりにしっかり把握している様なので明言はしない、または僕に分からない様なロジックや言い回しでもって表現しているのだろうが――共通認識になっているって事であるし、いやまあそこは否定できないし寧ろ体全体を使って肯定を表現したいくらい僕もそう思っているぐらいなんだが、しかしまあ何だか自分以外の人間に馬鹿呼ばわりされるのは何だか気に食わない。だからこの問題を解決するために僕は頭を良くしならなければならない。頭が良くなれば彼らが何を言っているか理解する事ができるしこの劣等感を解消する事ができる。しかし以前にも言ったとおり頭が良くなると言う事は今の自分と言うアイデンティティを殺すことになる。馬鹿な私なりに馬鹿な選択をして馬鹿な人生を生きてきたからこそ馬鹿たる今の自分がいるから。つまるところ私という人間を構成する要素の一つが「馬鹿」であるからして、頭が良くなってしまったらそれは最早私ではない何かである、と。頭が良くなると言う事は今の自分の死を意味する。馬鹿を否定する事は自身の否定につながるからして、私が私である限りは頭が良くなることは出来ない。私は一生彼らが何を言っているかを理解する事がないまま劣等感を抱えて生きていかねばならないのだ。

そんなに劣等感ばかり持っているのならさっさと絶交してしまえば良いのに、と思う人間もいるかもしれない。

が、そんなんで何とかなるならとっくに縁を切っている。実際無理なのである。彼らと出会ってしまった時点でもう手遅れだったのである。彼らの頭の良さに触れてしまったが最後、その場に頭の良い人間たちがいてもいなくても「もし頭が良い人だったら」と言う仮想が常に付いて回る。人生に「もしも」はない、なんて格好良く決めても良いかもしれないが、目の前でその「もしも」の可能性を持つ人間を見てしまえばそんな格好つけた言葉がばかばかしく感じるはず。踊る阿呆に見る阿呆、踊っていても見ていてもどちらについても常に「阿呆じゃない人たちならば、」と思わざるをない。頭の良い誰かは常に僕の上を行っている。僕の分からない言葉で僕の分からない論理で僕の分からない何かを考えて僕の分からない方法で僕の分かる物事を動かしている。頭の良い誰かが今も世界を考えて世界を動かし続けている。今もどこかで。まるで名状しがたい神々の様な、コズミックホラーめいた畏怖の念を覚えながら、まるで陰謀論に憑り付かれたかの様に恐怖し続ける。酷い妄想だと馬鹿にされるかもしれないが、いつも僕は彼らと会って会話(として成立していない言語のやりとり)をしているし紛れもない現実だと僕は認識している。今だってすぐそこにいる。

ああ!窓に!窓に!